Blue Flag



晴天の空に、それは翻っていた。
整列した僕らはただ前を見て、訓示を聞く。しかし、そこに足音高く近づいて来た大隊長が少年の前に止まって言った。
「その旗を降ろせ!」
ポールを握り締めていた12才の少年は小声で「いやです」と言った。
「何?」
男は眉を釣り上げて彼を睨んだ。

「これは僕達が決めた自由の旗です」
青い布に描かれたオリンポスの獣。それは、昨日僕達全員で案を練り、みんなで誓いを立てた名誉の旗だ。他の誰の命令にも屈しない強い意思を表明した僕らの印。少年は、一人でその誇り高き栄誉を手の中に握っていた。
「掲げて良い旗は一つだけだ」
男が強引に旗を取り上げようとした。彼は放すまいと必死に拒んだ。
「逆らうつもりか?」
威丈高に迫られて少年の目に涙が滲んだ。

「待ってください!」
僕は堪えきれずに二人の間に割って入った。
「僕は彼が所属するグループの隊長を努めています。この旗は昨夜、隊全体で話し合って決めた物です。自由の意思とこの国への愛国と忠誠を誓うための名誉の旗なのです」
僕はそう説明した。が、相手は聞く耳を持たなかった。
「忠誠を誓うのはただ一人、総統のためだけでいい。党旗は既に存在している。他に必要な旗など有りはしない。そして、おまえ達に個々の意思など必要ない。そのような自由を与えれば、おまえ達は助長し、秩序を蔑ろにするだろう。一糸乱れぬ統率とこの国の安寧を総統は望んでおられるのだ」

「しかし、人は皆、自由な旗の下に生まれて来たのです。それを無視する事は人間の根源を侮辱するのと同じです」
僕は大隊長に食い下がった。しかし、その男は少年から強引に旗を奪い、ポールをへし折ると僕らの誓いを託した旗を軍靴で踏みにじった。
「やめろ!」
僕は大隊長を突き飛ばし、旗を奪った。それから、土の付いた布を手で払って少年に返して言った。
「これは君の名誉だ」
少年は頷き、零れそうになっていた涙を手の甲で拭うと頷いて見せた。

「貴様!」
男が僕を殴ろうとした。僕はその手を避けて、逆にそいつの顔面を平手で激しく打った。
「貴様、こんな事をして、ただで済むと思うなよ!」
皆の前で恥をかかされた格好になってしまった大隊長が口汚く罵る。だけど、僕は動じなかった。
「いつでもどうぞ。僕は何処にも逃げはしません」
そう。僕は逃げたりしない。僕は自分が正しい事をしたのだと信じている。市民や若者の夢を奪ったのは今、国を支配している者達だ。皆が一丸となって強い国を作る。そして、若者に安定した仕事と理想の未来を残す。そのために僕らは徒党を組み同じ目標を目指したのだ。自分達の明るい希望と夢を叶えるために!

しかし、彼らは僕達から自由を取り上げ、夢を取り上げ、ただ一人のためだけに忠誠を誓う事を強いた。すべての生活に制限が与えられ、互いを監視し、考えの違う者達を排斥した。
それだけじゃない。彼らは人間を物のように扱った。
来る日も来る日も何万もの屍が積み上がり、いつか空は人が焼かれた煙でくすんで見えた。
僕は先の見えないポールを握り締め、旗のない空を見つめた。

誰も口を利かなくなった。誰も国を批判しなくなった。罪のない人が連行され、小さな子どもまでもが命を落としているという事実に皆が目を背け、耳を塞ぎ、通り過ぎるのを黙って待った。
「何故、こんな事になってしまったの?」
君が訊いた。
「僕らは選び損ねたんだ」
そう。聞き心地の良いあの男の嘘と、すべての人の中に眠る関心のなさがあの男を傲慢にし、結果として身近な人を傷付ける事になってしまったのだ。

これは誰もが責任を負わなければならない。君も僕も、この国に住むすべての人がみんな、あの男に荷担してしまったのだから……。
同胞よ、勇気を出そうじゃないか。
僕は皆に呼び掛けた。そうでなければ、この恐ろしい殺戮を止められはしない。しかし、それには危険が付き纏った。市民の多くは奴の傀儡になっていたからだ。そして、彼らは積極的に裏切り者を見つけては通報し、報酬をもらう事に快感を見出していた。たとえそれがその人を死に追いやる事になったとしても、彼らは信じて疑わないのだ。自分達は正しい事をしたと……。

人が人によって断罪される。異端の者、役立たない者を排除する事で自分達の生活が守られ豊かになれると錯覚している。彼らは、まさしくそれが義務だと思っている。押し付けられた価値観に対し、何の疑問も感じず、実行してしまう。命を命と思わない愚行。そして、最悪なのはそれがその人にとって良いことなのだとすり替えられた思考だと気付かず、間接的な殺人に、積極的に手を貸してしまう。本音が立前を嘲笑い、同胞の手を踏みつけ、崖から突き落とし、平和になったねと言って笑う。
もう、この空の何処にも、僕のブルーは見えなかった。
汚されてしまったのだ。踏みつけられてしまったのだ。あの日、あの男の軍靴で旗が汚されたように……。

僕はこの時代でただ一つ、やれる事を実行した。皆が唯一な存在だと崇めているあの男の正体を曝し、愚行を暴き出す事だ。そして、無意識の内に荷担させられている殺人に対し、恐怖を植え付け、個々に反省を促す事だ。
僕はタイプライターでビラを作った。一人でも多くの人に思い出して欲しかった。自分が罪を犯し続けているという恐怖を……。
僕は町中にビラを貼り、郵便ポストに投函した。共感してくれる人は少しずつ増えていた。

しかし、時代はまだ追い付いていなかった。僕は連行されるかもしれない。僕の手はずっと小さかった。国一つ変えるにはまだ、幾つもの時代を通り過ぎなければならなかった。
獣がこの街を呑み込もうとしている。僕に出来る事は限られていた。
「好きよ」
僕は君の手を握り返す。幸せにしてやれなかった妹のために、そして、人々の記憶に残る未来を僕は少しだけ書き換えようと思う。

僕は教会の塔の上に立ち、最後のビラを広場に集まっている人々の頭上に蒔いた。それは白い花びらのようにきれいだった。そして、死に神の靴音が階段を上がって来る。僕は高い塔の上から空を仰いだ。そこに広がるブルーには、未だ描かれた事のない未来と、自由の旗が大きく翻っていた。